昭和47年6月30日 大祓式★



 (途中から)
 向こうから全部休んでおる。それが全然ご飯を頂かないんです。ですから、親方の病院に、市内に病院が、もうどこもここもが満員。それで自動車で四十分も、田舎の方へ行って、入院をしておるというのである。
 「とにかくあの、お取次ぎを頂いて下さい」で、こんなわけでもう、みちこっていうですかね、「もうそれこそ日干しのごとなって、痩せ枯れていきよります」とこういうお届けがあった。やっぱりその日でしたが、高山さんが、今大阪の方へ、あっ、三橋先生とこが東京へ行ってる。(?)高山さんところは、大阪ですけれども、最近あちらへ行っておりますその孫がね、やはりその、食べ物を食べない。それで、「あちらにそういうような病気が流行っておりますようですからではなかろうか」というお届でございました。
 まあその後のことは聞きませんけれども、昨日、久留米の三橋先生ところは、電話がかかって、まあ「おかげを頂いて、自分ところの子供がご飯を頂くようになった」というてその、まあ、電話がかかったから、と言うてお礼のお届けがありました。
 それはもう、だんだん時代が進むにつれまして、教祖の神様は、ね、「世の中が開けるというのは、世の中がめげるのぞ」と仰る。世の中が開けていくということは、開けて行けば行くほどに、世の中はめげて行く。ね。はあ、教祖様は百何十年前に、もうようそういうことを仰っておられたなぁ、と改めて思います。「世は開けた開けたというけれども、開けるのではない、世がめげるのぞ」と、確かにめげておる、いわゆる、めげていっておる状態を、今の公害の悲惨なお話を聞くたんびんに、なるほどめげておるんだなぁと思います。
 百年前にはなかった病気ができる。ね。もうそれこそ、不思議な病気が、今のように、集団、学校全体が休まねばならんというほどの病気が流行っておる。ね。ここにいよいよ、私ども人間氏子がです、ここに何をか感じなければならない、私は時期だと思うんです。ね。人間の力、人間の知恵をもって、今日までこういう進展を遂げてきた。それを文化と言えば文化でしょうけれども、非文化と言えば、このような非文化なことはない。ね。
 自分達の作ったもので、言わば苦しめられておるという状態。ね。たいしたことだ、人間の言わば力で、月の世界にも行けれるという時代にもなった。そして、始めてここに、公害だとか、ね。このまま行っておったら、何十年後、何百年後には、世界が、地球上の人類が死滅してしまう恐れがある、というような、その怖いことを聞く時代なのであります。
 そこでです、人間の知恵とか力とか才覚では、どうにもできないということを、一番のそういう科学者の方達が気付いてきた。ね。一番の勉強の、いわゆる学問の先端を行っておる人達が、それを言い出した。「これは何とかしなければならない」ということが、どこに落ち着いたかというと、「これは心だ」ということになってきた。
 人間が幸せになるというのは、ね。言わば、世が開けるということではない、世が開けるということは、世の中がめげていくことであることの自覚が、ようやくできてきた。教祖様はそれを百年前に仰っておられる。ね。
 そこでです、なら、なるほど「心、心」と言うてです、ね。心を大事にするということを教えられるわけでありますけれども、ね。んなら、心だけで幸せにはならない。「あの人は、仏様のような人じゃ、神様のような人じゃ」というような心の人でも、やはり「次々難儀なことが起こってくると、世の中では、どうしたことであろうかと言おうが、信心しておかげを受けるのは別ものじゃ」ということ。そこで、どうしてもここに信心が必要になってくるのです。
 しかもその信心というのはです、ね。ただ、拝んでもろたから助かった、ふき呪いをしただけで、それは只今申しますように、鎮魂法ということによって、(百枚の石が百十のもの?)になったり、ね。払いの神風によって、災難が払い清められたりというようなことも、確かにできるけれども、それはね、それはもうほんとに、言うならば、百匁が、十匁増えるというだけのことなんです。ね。
 だから、信心もなるほど甘木の初代が仰った。「先生、こうやって大祓式をして、こうやって払い清めしますが、あれはちっとはやっぱ役に立ちましょうか」っちゅうた。「うん、それはせんよりは良か」と仰った。せんよか良か。
 だからね、その不思議なそういう働きというものはね、もうせんよりか良か、というくらいなんです。例えばここで大祓式を一番始めに、教会になったと同時に、大祓式をいたしましたね。その年はもう、車の交通事故とものがもう、皆無でしたからね。というほどしに、とにかく神様の働きというものはっきり見して下さって、年々歳々そのへんのところがね、狂うてきておるというのではなくて、そのことを通して、ほんとうなことを、神様は、私どもに教えておられるという気がする。
 いくらお払いを受けたからというて、酔っ払い運転で良かろうはずがない。いくらお払いを受けておるからというて、ね。規則を破って、例えば自動車を使うようなことをして良かろうはずがない。ね。
 そこで私どもがです、どうしても分からして頂かなければならないことは心であり、しかもその心というものが、ただ心が優しいとか、親切心が強いとかというだけでは、神様のような人でも仏様のような人でも、次々難儀なことが起こるのだと仰るのですから、信心をさせて頂いて、真の信心を分からして頂いて、真の信心を分からせて頂くということは、ね。言うならば、我とわが心が拝めれるような状態を言うのだと。
 今朝から、私は、その御祈念で、そのことを悩み聞いて頂いたんですが。たらまあ、私が、まあだ八日か、十日あまりにですけれども、ね、不思議なことが、自分で感じられるんです、心の中に。私は、朝三時十五分に起きて洗面所へまいります。して、洗面所の電気を点けてから、顔をこう洗わせて頂いてから、ジャブジャブ洗って、っとこう見らせて頂く自分の顔がそこへ映っておる。もうその顔に、最近ここ一週間あまりにもう、惚れ惚れとしてみとれます。もうなんと素晴らしい顔じゃろうか、この(しょんだれとる?)具合の良さっちゅうものをこりゃ。いや、ほんと私はそれを思うんです。それを毎日なんです。
 ですから朝、目を覚ます時には、またあの顔と面会ができると思うからね、何かこう、こう弾みがついたような感じがいたします。ね。好きなあの人と会えると言うならば、もうそれこそ「イバラの道でも痛うない」というのですから。そういうように、また、私の言うならば、信心と言うか、ね。日々さらと仰るが、日々さらに、私どもの心は喜びに満ちてくる。その喜びに満ちた、その人相というか、顔色がです、毎朝のその鏡で見せて頂けれる。何とも言えない。
 はあ、信心ちゃ、しかし不思議な事じゃあるなぁ。長い間、この顔をずいぶん何十年と見てきたけれどもね、ほんと惚れ惚れとして見た事がなかった。「まちっと鼻が高かなら良かろう」とかね、「ここにこげん傷が無かなら良かろう」とか思うたけれど、ね。まあ言うならば、漫画んごたる顔だけれどもね、(今日なんかでも?)ヒゲもボウボウしとりますけれども、その顔の中にです、ね。ほんとに不思議でたまらん。もう、「何と言う素晴らしい魅力のある顔だ」と。ここ十日あまりです、毎日それを思うです。ね。
 それが、どういうことからそのようなことになってくるかというとを、まあ、今日、煎じ詰めさして頂いたらです、ね。自分の心というものが、いよいよ尊重しなければおられないことになってきた。自分の心というものを、いよいよ大事にしなければおれなくなってきた。ね。
 例えば、つまらないことで腹を立てるなんて馬鹿らしい。ね。ほんとの事が分からして頂いたら、それは泣きの涙というような悲しい事柄であっても、それは、お礼を申し上げることのない、他にないことの事実をだんだん分からして頂いてきたら、はあ、神様が心をお育て下さっておる、そのお育て頂いておる、そのおかげを実感さしてもろうて、一日を締めくくらして頂く時に、「今日もおかげを頂いて有り難うございました」が、一日のことを振り返ってみると、「あの事もお粗末でございましたろう」「この事もご無礼であったろう」と思うことを反省さしてもらい、ね。詫びるとこは詫び、お礼を申し上げるところはお礼を申させて頂いて、休ませて頂くのですから、ね、やはり、休んどる間に、人相がそうやって、ね、何とはなしに魅力のある顔になってきておるのではなかろうか。
 言うならば、神様に丁重に扱うて頂いておるということをです、私、実感いたします。「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」これが今朝の御理解でした。ね。信心さして頂きゃ実意丁寧にならねばならん。皆が神様の氏子であるから、ね、いわゆる皆が平等なのだ。「あの人は、どうのこうの」と軽蔑するということ、ようなことやらはいけないのだ。皆も大事に扱わなきゃいけない。ね。
 人から「先生」とか「旦那様」とかと言われるようになると、頭が高うなる。稲穂は実が入れば実が入るほど、かがんでいくというではないか。信心して身に徳を受けたら、ね。いよいよ頭を低うして過ごさして頂けれるようなおかげを頂かなければならん、と教祖は教えておられる。ね。
 ですから、自分の心の中の実が、大きゅうなってくれば大きゅうなってくるだけ、重くなってくれば重くなってくるだけ頭は下がっていかなければならんのに、ただ、実意丁寧というのは、こう丁寧にすることだけのように。訳で、今朝は私は、そういう実意丁寧の化け物になってはならないと。形だけのものであってはならない。心からそうしなければおられないという心。ね。
 例をもってから申しましたんですけど、もうこれは、ずいぶん前のことでしたけれど、ある、子供の時に、病気をいたしましてね、ちょっと頭がおかしくなった人がある。ね。だから、そんな、まあですから、皆があんまり相手にしない。
 ある日、私がここに座っておったら、ちょうどその人と田主丸のむつ屋のしんじさんが、意外と親身な話をしておる。私は、何か知らんけれど、下りて行ってから、「しんじさん有り難う」と言うて、お礼言いたいような気がした。ね。
 世の中の吹き溜まり、ね、世の中では、言うならば、一人前に取り扱うてもらえない人をです、一人前対等にお話をしておるという、その姿を見た時にです、私はほんとに、下りて行って「しんじさん有り難う」と言うてお礼を言いたいような心がしたように、天地金乃親神様も自分の、同じ平等であるところの氏子がです、そのように丁重に扱われておるとするならば、扱うておる人に神様が、一礼を申しなさるほどしの働きがあると私は思うんです。
 信心しておかげを頂くということは、ね。神様から、ね、いよいよ丁重に扱うて頂くということだ、と私は皆さんに聞いて頂いた。信心しておかげを受けるということは、ね、ただ、「今年も一年間無事であった」とか、ね。おかげでだいぶ儲かったとか、ということのおかげに間違いはないのですけれども、ね。どういう中にあっても、神様の御守護を、心から身からそれを感じさして頂けれる、ね。神様に丁重に扱うておられる人の姿が尊いんだ、というふうに思います。
 そこで、私どもが人を、ね、軽う見るというのではなくて、昨日私は、ある人が、軽う見られたと言うて腹かいて、それこそ涙がでるようにある。その時、いっちょんそげん腹が立たんであったが、もう明くる日になってきたら、もういよいよ腹が立つ。ね。
 軽う見られたその言葉がもう、心に、その残っているわけなんです。ね。それで私は、なるほど、「それはいけないね、そういう人を軽う見るような事を言うちゃあ。けれどもね、軽う見られたあなたも悪いとよ」と私は申しました。人が軽う見る。あなたを軽う見たら、あんたを軽う見たその人は、その人もおかげを頂かないことになるんだからね。「人を軽う見たらおかげはなし」と断言しておられる。ね。ですから、人をほんとに大事に尊重して扱えれる人になれたらおかげがある、と断言できるわけになるでしょう。
 おかげが頂きたいならば、いよいよです、ね、人からも軽視されない、軽蔑されないだけの自分になることなんだ。それにはね、自分自身の心が、ただ心だけではない、日頃ここで申し上げますところの「和賀心」を目指さしてもらうということなのです。ね。
 「和賀心」を目指さしてもらい、ほんとにいつも和らいでおれれる、いつも喜んでおれれれる。それは、どういう中にあってもそうだ。ね。言うならば、不壊の心、壊れない心。ね。そういうような心がです、とても人間でできるじゃろうかと、思える。いいえ、人間だから、こんくらいのこと当り前と思って、平気でお粗末ご無礼をしておった、昔の私というものを思うて、んなら、ここ二十数年間、ほんとにその「和賀心」「和賀心」「和賀心」と明けても暮れても「和賀心」を焦点にして、願い唱えておりましたら。ね。
 ここ十日あまりではありますけれども、それはいっぺんになったのじゃない、だんだんだんだん積み重ねられて、ね、毎朝、自分の顔に面会をするのが楽しみになって、もう何と言う有り難い顔であろうかと、ね。それこそ見取れるほどしに、自分が感じられるということになれれるということ。信心とは、だから稽古しなきゃダメだと。ね。
 そこにです、言うならば、神様から、天地を召されるところのおかげを受けておる印が今の合楽教会のごひれいであります。ね。
 私どもが、ね。今日のこの大祓式というのは、ね、お払いを受けんよりも良か。ね。お払いを受ければ、それだけのたとえて言うならば、あなた方が百前であるならば、百十匁にはおそらくなっておるに違いはない。ぐらいのおかげは、もう絶対のものなんだ。
 これは、私が神様に、それこそ天地に祈る限り、これはもう絶対。それはね、日頃のここの、皆さんが頂いておるおかげをもってです、私はひとつ、「ほんに先生が仰るとが、ほんとうだろう」と思うてもらわないけません。ね。
 だから、今お払いを受けたからだけで良かろうとは思われん。人間が真実幸せになっていくことの為にはです、ね。いわゆる、この言わば、「心の時代」という時代から、ね。「和賀心時代」に、と合楽では今言ってるわけです。まず自分の心から、自分の家庭から、和賀心時代をだんだん広げていくところのおかげを頂いて、ね。自分の心が和賀心がある時に、物事も事柄も、すべての事を有り難く、「御」の字を付けて「御事柄」として受けていけるようなおかげが頂けれる。ね。
 だから私どもは日々です、おかげを頂いて、ね、金光様の信心をさして頂くのはもう、「毎日毎日が信心の中にある」と思わなきゃいけません。
 そうですよね、自動車に乗る時でも、やっぱこうやって拍手打って拝む。信心です。心を神様に向けておることなんです。ね。お食事をさして頂くでも、神様頂きます。ね。日常生活が、言わば信心であり、日常生活が、私どもの神事であると分からして頂くようなおかげを頂いて、いよいよ焦点を「和賀心」に置かせて頂くところのです、信心。
 んなら、その「和賀心」にならせて頂くことの為には、どのような信心を、どのような生き方にならして頂いたら良いか、ということをです、身を持ってはっきり自分の心に頂き、自分の周囲にそういうおかげを現していくということがです、とりも直さず「和賀心時代」を自分の周辺から広げて行くことになります。
 日々を神事の生活。言うならば、拝んでいる、あっ、拝み合いの生活。そこで、例えば自動車を拝み人を拝み、言うなら、家内を拝み、主人を拝み。親が孝行、親が拝まして頂けれる、というような日常生活が必要であることになります。
 そこで、例えば今申します、形だけの家で合掌することなら、誰でもできるけれども、ね。心から「拝まにゃおれん」というものを身に付けなければいけない。ね。心からおかげを頂かせてもらわなければならない。ね。常日頃、心を神様に向け続けておらなければならない。
 今朝から、福岡の高橋さんが、朝の御祈念の後に、「親先生、今日は、今度北九州の方へお寿司屋さんが、二軒また造られます」もうそりゃもう、それこそ、日頃の、日頃ね、いわゆる神事が、生活ができておる。ある意味で。ですからもうその、神様が、それこそ高橋さんがおられない時には、合楽に電話してからというくらいに、信心に、御用に打ち込んでおられるわけでございます。
 ところが、今日に限ってです、今日の月末の三十日が、あちらの方のお店を譲り受けられ、わざわざ東京、大阪か東京からか見えて、その、今日会談があるわけです。中に入っておからなきゃならん。それで、どうしても今日の大祓式にその、参加できない、お参りができない。車もここに持って来るわけにはいけないわけになった。だから、「どうして頂こうか」とこういうわけ。
 まあ、普通ならば、「まあそげな事はポンと蹴っといてから、こっち来たらええよ」と言うとこでしょうけども私は、「お繰り合わせをお願いしときます」とこう申しました。したら、しばらくいたしましたら、まあだそれが分からんごとある。「先生、今日お繰り合わせって先生が仰ったことですが、どういうふうなお繰り合わせをお願いして頂いたんじゃろうか」ちゅうわけです。
 「いや、そりゃあんたが今日は、北九州の御用に行くっち言いよるけ、北九州の御用行くごとお繰り合わせをお願いした」「ああそうですか」そんなら安心して行けますけれども、何かこう引っかかるわけなんですね。
 何故私がそういうふうに言うたかと言うと、あの、★始めに「不断草」を頂いた。お野菜に「不断草」というのがありましょうが。その不断草をね、こうやって幹から葉の所を、ちょうど矢のような形でです、ね、向こうに大きな輪がある、その輪をもって、こう射っておるような不断草の矢でした。射っておるような場面を御心眼に頂くんです。
 ははあ、この人は、もう常日頃からこの輪(和)をもって、言うなら、常日頃が和賀心に向かって、一生懸命御用の上に信心の上に、それこそ毎朝福岡からお参りをしてくるのですからね毎朝。これはもう降っても照っても。ね。そして、まあ、御用と言や日に二回も三回もやっぱり合楽に通うて来られる。
 今、十軒ぐらいいろいろ分件がありますでしょう、お寿司屋さんが。九州中に広がっていきよる。それでいて自分は、そこに例えばもうそれこそノータッチです。「今日は、主人があちらに行かなきゃどうにもできない」ということなのですけれども、なるほど、普段(不断)の信心が素晴らしい。だから、今日はこのお祭りに参加しなくてもおかげ頂くぞ、と心に思いましたから、その事は申しませんでしたけれども、今日は安心してあちらへおいでられておる。
 ただ、大祓の日だけ参ってお願いをするというのは、それは確かに、百枚を百十もんのになるぐらいのおかげは頂けましょうけれども、ね。人間そのものが助かって行くというおかげになってこない。どのような場合であっても、「有り難い」と合掌して受けれれる心が生まれてこない。ね。
 そういう、私は、日頃の稽古が、今日の高橋さんのね、不断草の矢を持って、丸い輪に焦点を置いて、こう射っておられるところを頂いたんですけれども。なるほど常日頃の信心がいかに大事か。常日頃、全てを、ね、和賀心に焦点を置いての信心生活をさせて頂くということが、私が助かることではない、言うならば、ね。もうもちろん今日は、悪疫予防交通安全の大祈願でありますけれども、そう銘打ってありますお祭りでございますけれども、もちろん火難盗難水難、あらゆる人間の難儀という難儀の中からです、(ぶし?)ばお守りを頂きたい。または、そういうものがかかってきておるならば、払うて頂きたい、というお祭りなのです。ね。
 銘打ってあるのは、交通安全である悪疫予防ですけれども。人間の不幸せということの、に幸せになっていくことの為の全てなのです。ですから、そういう災難は払われたにいたしましても、払われたから人間が幸せではない、ということ。今日一日無事であったということだけでも、心から「有り難い」とお礼が申し上げられないのがそれなんです。ね。
 ですから、それと同時に、そういう、こういう式に参加さしてもらうということと同時に、日頃、普段の信心がいかに大事かということを、肝にお互い命じさせて頂いて、いよいよ普段の信心を大事にしていかなければならない、ということになります。ね。
 まあ今日は、言うなら、(初心?)の方達も見えられておられるわけですけれども、言うことは、まあひとつ形式でもいいから、ひとつ拝むことから始めて、自動車に乗る前ハンドルを取る前に、まずひとつ合掌して「金光様。和賀心和賀心」と自分の心に唱えるくらいなことはなさらなければいけないのじゃないか、と思う。ただ払うて頂いただけじゃいかん。「金光さん」でハンドルが握られるところに、私はいわゆる、百枚が十匁増えるようなおかげは受けられると思います。ね。
 それはまあ、今日の一年の交通事故からお守りを頂いた方達の実例でお話をすると、ビックリするようなおかげを頂いとりますよ、皆が、ね。ですけれども、それはどこまでもおかげですから。これから受けて行かなければならんのは、実際なのですから。影を追うのではない、ほんとに助からなければならないという信心を今日は聞いて頂いたわけでございます。どうぞ。


明渡 孝